調査研究 関連記事 2010年 12月 06日       HOME       

 放送ライブラリー(横浜市)が開館10周年を迎えたのを機に、『月刊民放日本民間放送連盟編集)12月号が特集「使おう! 放送ライブラリー」を組んだ。その特集のための原稿を依頼されて、「セカンドメディアとしての責任と未来―大学のジャーナリズム教育と放送ライブラリーの活用」を書いた。編集部の許可を得て、ここに転載する。
                         (花田達朗  2010/12/06)
       


   セカンドメディアとしての責任と未来

 ― 大学のジャーナリズム教育と放送ライブラリーの活用 ―

          早稲田大学教育・総合科学学術院教授 花田達朗 
                        『月刊民放』2010年12月号
 

(注:以下絵ネットより)

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 放送番組センターの放送ライブラリーは放送法によって定められた施設であり、その業務は 「放送番組を収集し、保管し、及び公衆に視聴させること」となっている。 しかし、なぜそれが必要なのか、何が目的なのかについて放送法は何も語っていない。 放送番組を何のために収集、保存、公開しようというのだろうか。 放送番組は文化的な価値をもつものなので、文化財保存・保護と同じような考え方から、その保存が必要なのであろうか。 おそらく一般的にはそのように考えられているのであろう。

 同ライブラリーの放送番組収集基準を見ると、 「国内および海外で賞を受けた番組」 「高視聴率、視聴者の反響など話題を集めた番組」 「表現技法、制作技術などにおいて、新しいジャンルを開拓した番組」 などが並んでおり、文化的資産価値のあるものを選んで、保存し、後世に記録として残そうという発想があることがわかる。

 しかし、放送済みの番組の保存とはそのような 「消極的な」ものだろうか。保存された放送番組とは単に文化財・遺産なのであろうか。放送ライブラリーにはもっと「積極的な」意味、すなわちそれが何の目的で構築され、どのように活用されるべきものかという意味があるはずだと思う。 本稿では、そのことを大学の教育現場の経験とそこから得られた視点を紹介しつつ、考えてみたい。

ジャーナリズム教育教材の不備

 ここ5年間、筆者は大学でのジャーナリスト養成教育にかかわり、試行錯誤と開発実験を繰り返してきた。簡単に言えば、それは仕組み作りと教育内容・方法の両面にわたる。仕組みで言えば、早稲田大学オープン教育センターに「全学共通副専攻ジャーナリズムコース」というものを徐々に作ってきた。 これは所属学部を問わずジャーナリスト志望の学生に対して、副専攻としてジャーナリズムを実践的に学ぶ教育プログラムを提供しようという仕組みである。 この教育をジャーナリズム研究の面からバックアップするとともに、エデュケーター面からサポートするために、ジャーナリズム教育研究所を開設した。 同研究所はミッションとして「ジャーナリスト教育の研究開発とジャーナリズム研究の革新」を掲げている。 と同時に、研究所は寄付や委託研究など外部資金の受け皿でもある。

 さて、教育内容・方法であるが、ジャーナ (2頁へ)

   (参照:動画 左 http://www.youtube.com/NEPYOU 
         右 ユーチューブ NHK制作 ワーキングプア より)
 
   

     


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リズムの理論と歴史を学び、同時代についての批判的・分析的な社会認識を理解し、そしてジャーナリストの経験的な知と実践的な精神から学ぶことを目標としている。 「ジャーナリズムとは何か」 「ジャーナリストとはどのような職業か」 を理解し、その意味や姿勢を明確に意識したうえで、その道に進んで行ってほしいと考えている。 「ジャーナリスト養成教育」 であって、「マスコミ教育」 ではない。

 そこでは二つの教育方針を採っており、一つはジャーナリズムがその社会的機能を果たしたときのケースと作品とジャーナリスト当人から学ぶこと、もう一つは観察者の立場に立ちつつ出来事の現場と当事者 (つまり「他者」) からいかに学ぶかということである。「マスコミ」の評判低下と、若い人々の間に見られる「マスコミ」への嫌悪感を環境条件とせざるを得ないいま、学生にジャーナリズムと「マスコミ」は違うのだということを強調し、「ジャーナリズムが輝くとき」を示し、「」としてのジャーナリストの仕事と人物を見せ、社会問題の現場に身を置いて考えさせるほかによい方法は思いつかない。

 そこで遭遇するのが材料をどのように調達するかという問題である。学生に教材として見せる番組はエデュケーター自身が過去に自分で録画したり、放送後に制作者に直接頼んで入手したりしたビデオテープやDVDであった。つまりプライベート・アーカイブに依存してきた。 このことはさまざまの目的や趣旨で放送番組を使ってきた多くの大学教員に共通した事態であり、大きな不便さであった。 個別の教員の個々ばらばらの努力と苦労に任されてきたのである。

 教員の間では放送番組を授業で何のために使うかについてはさまざまの考え方があり得るが、映像世代の学生に対して放送番組が有効な教育手段だという点では見方は一致しているだろう。 もちろん映像のウソや認知への権力作用など、手段そのものへの批判的な視点をも含めてである。 NHKの 『ワーキングプア』 や日本テレビの 『ネットカフェ難民』 を観れば、ジャーナリスト志望の学生であろうとなかろうと日本の貧困問題について否応なく考え始める。映像は学生へのインパクトとして、ものを考える入り口として効果があることは経験的に否定できない。

 そのような放送番組へのニーズが大学のなかに散在して、たくさんあるにもかかわらず、現状では普遍的、包括的な解決策、仕組みがない。 極めて効率の悪い、非経済的なやり方で行われていて、このままでは展望に乏しい。 何とかならないのだろうか。

放送番組の森研究会」の問題意識

 そう考えていたところへ、放送番組センターからジャーナリズム教育研究所に共同研究の申し入れがあり、受託した。 保存された放送番組を大学の教育・研究にどのように活用することができるか、その利用モデルを開発するという趣旨である。 中身は、ジャーナリズム教育のための教材作成やそれを使った授業方法の開発、そして大学で開催するジャーナリズム関連のセミナーやイベントにおいて保存番組を利用する方法について研究・実施することである。保存放送番組を活用した教材開発については、10人の研究者とジャーナリストからなる研究会を立ち上げ、「放送番組の森研究会」と名づけた。

 研究デザインとしては、各メンバーがそれぞれに「テーマの樹」を立てることにした。その樹が集まってきて、森になるという比喩である。 「テーマの樹」の立て方については、社会的な問題が現実に存在していて、問題としての「命名」も行われていて、そしてそれにかかわる番組群が制作されており、さらにそういう番組への批評や社会的評価が出されているような、そういうレベルのテーマを立てることにした。 (3頁へ)



3頁






















 
 その樹をどのようなものと考えるか。 それは表象の樹である。ここで制作される教材とは、適切な保存放送番組を活用して、あるテーマについて一般的な概説を試みるような教材ではなく、放送番組群があるテーマをどのように表現してきたか、出来事をどのように表象してきたかという系譜や構造を明らかにしようと試みる教材である。

 それはジャーナリズム・リテラシー教育用の教材を目指している。ある出来事についての、あるいはそれらの連鎖のなかに形成される「世の中の流れ」についての、われわれのイメージ、もっと正確に言えば、社会的記憶、集合的記憶はどこから来るのか、いや何から創られているのかという問いと結びついている。

 具体的に言えば、例えば学徒出陣、沖縄戦、原爆投下、あるいは水俣病、毒入りカレー事件、9・11、何でもよい。 これらは放送番組で繰り返し使われてきた映像によって記憶されている。 一つ一つの出来事だけではなく、その位置づけや一連の解釈についても放送番組での表現に影響されて社会的記憶となっている。 つまり、保存された放送番組のなかにわれわれの社会的記憶の源泉、あるいは出典があると言えないだろうか。 言い換えれば、放送番組は社会的記憶の創造過程の重要な要因であり、したがって今日のわれわれの社会的記憶の由来を尋ねるとき、そして今日のわれわれの社会認識のあり方を問題にするとき、保存された放送番組のなかに分け入って検証しなければならないということである。

 ここに放送ライブラリーのアクチュアリティがある。 『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』 (萩元晴彦、村木良彦、今野勉)の著者たちが当時制作した番組は今日ではほとんどを観ることができない。 完全に保存されていないからである。 しかし、観た者たちの記憶のなかにイメージとして残っている。 そして、それが現在を規定している。放送ライブラリーに向かって「お前はただの過去にすぎない」と言うことは間違っている。 お前はいまも現在なのであり、社会的記憶の現在性を担保しているのである。

 当研究会は来年3月5日に横浜の放送ライブラリーで公開の研究発表会を開催し、教材開発の中間報告を行う予定である

放送ライブラリーへの期待

 今日のアーカイブズにとって革新的な要素はデジタル化である。それによって蓄積・公開コストを低減でき、保存放送番組に対して検索エンジンを使うことが可能になる。 方向性はおのずと、公開度の向上、検索・認識性能の向上の2点に向かわざるを得ない。

 公開度の向上の一歩として、放送ライブラリーを教育目的に活用し、社会のなかへと開いていくことが考えられる。 先述のように、大学には保存放送番組へのニーズがある。 無論ジャーナリズム教育に限らない。 放送番組が森羅万象を扱う以上、それへのニーズはあらゆる学問分野、あらゆる科目に及ぶであろう。課題は、使いやすくアクセスしやすいシステムを用意することである。

 そこで、あり得るのは大学と放送ライブラリーを直接結んだ保存番組配信システムを作ることであろう。 両者で包括契約を結び、大学のなかで自由度の高い利用環境を実現し、教室で保存放送番組にアクセスできるようにする。 費用は大学の規模や学生数に応じて、大学が一括して放送番組センターに支払う。
このような形態はすでに大学図書館において電子ジャーナルで行われているし、AFPは写真や動画でこのようなサービスを日本の大学向けに開始している。

 しかし、放送ライブラリーのストック状況はまだ十分でない。 研究会で作成中の教材でも、当該の「テーマの樹」を構成するうえで不可欠の番組が保存されていないケースが多い。 収納への許諾を出す放送局側にはさまざまの事情や理由があるのかもしれないが、保 (4頁へ)


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存拡大に消極的ではないのかと疑われる。

 研究会の立場からすれば、もっと多くのドキュメンタリー番組を保存してほしい。 社会を映し出すドラマの保存も多くを望む。 また、インフォテインメントの拡大のなかでワイドショーは重要な出典である。 そして、フローのニュース。 この保存がほとんどされていない。 フローのニュースこそは日々、人々の、そして社会の抱く、出来事の記憶を、「世の中の流れ」 の記憶を生産しているのである。ニュースのアイテムにタグを付けて保存し、検索に対して感度の高い状態にしてほしいと願う。 特にフローのニュース枠のなかに置かれた企画シリーズには注目すべきものがあり、まとめて保存していただきたい。

 「不祥事」 ごとに放送されてきた 「検証番組」 のアーカイブ化も必要ではないか。 局としては保存を好まないかもしれないが、「失敗の歴史」 から学ぶことは必要だ。 さらに 「検証番組」 とは自己が自己の問題を語ったものとしてユニークな番組カテゴリーなのであり、公共化する意味があるだろう。

ライブラリーを組み込んだ制度構築を

 放送ライブラリーに当面想定される、あるべき姿とは何だろうか。 放送事業者および番組制作者(著作者)は番組放送後の社会的記憶のありように何がしかの責任を負わなければならない。少なくとも社会的記憶の形成過程の検証のために道を開き、資料(番組)の保存と公開に対して責任をもたなければならない。 人々の記憶に痕跡を残したのだから、やりっ放しというわけにはいかないだろう。

 とするならば、番組の選別をやめて、すべての番組の保存と公開が求められるのではないか。 そこに著作権の壁があることは理解できるが、その権利がもつ人格権的要素は引き続き考慮しなければならないとしても、財産権的要素については何らかの包括的な解決が構想されてしかるべきだろう。 つまり私的所有権という閉じた原理の内部に留まるのではなく、デジタル時代の新しいメディア・エコノミーの大枠のなかで解決するという方向である。

 重要なのは著作権者に対して再生産を可能にする対価が回収されることであり、生産と再生産の経済的な好循環が機能していくことである。それが確保されるならば、古い時代のメディア生産の物質的条件に対応して考案された著作権モデルではなく、新しいデジタル生産様式に対応した資金回収モデルを考案し、それに置き換えればよいのではないだろうか。

 ここまで述べてくれば明らかなように、放送ライブラリーの再定義が必要になってくる。 放送局が発射メディアだとすれば、放送ライブラリーは保存メディアである。 前者がファーストメディアだとすれば、後者はセカンドメディアである。 そして両方がそれぞれに「放送の公共性」の担い手であり、ともに公共圏の設営にかかわっている。 将来、抜本的に増訂された放送法体系においては、放送ライブラリーの章は大幅に増えることになるだろう。

 そのとき放送ライブラリーは文化財保存の施設としてではなく、いま現在に存在し、アクチュアルに作動している社会的記憶を検証・観測するための施設として位置づけられることだろう。 それは公共圏を観測する装置であり、あたかも銀河宇宙を観測する電波望遠鏡のようなものと見なされるであろう。


(はなだ・たつろう)1947年生まれ。

早稲田大学ジャーナリズム教育研究所所長。オープン教育センター・全学共通副専攻・ジャーナリズムコースのコーディネーター代表。

著書は、『公共圏という名の社会空間―公共圏・メディア・市民社会』(木鐸社)、『メディアと公共圏のポリティクス』(東京大学出版会)など。今年11月に『「境界」に立つジャーナリスト』(早稲田大学出版部)を編者として刊行