伊藤家と絵画  伊藤幟1898年明治31年生まれ 伊藤弥の長男

 

 『ふくしま100年』民報新聞・昭和62年・1987年刊行
左より 古関裕而 伊藤幟代議士(母・ツネ 父・弥 夫人・貞)
左より4人目 作詞家野村俊夫 5人目 歌手・三門純子
右端:伊藤久男(母・千喜 父・弥)ツネさんが若死にし千喜さんが後妻となる
 千喜さんは茨木県竜ケ崎の元家老の家の出で、書画・茶道に明るかった
(町史11p497)
伊藤久男昭和8年デビュー (昭和15年撮影)

本宮町史11 p30より
戦前の本宮市における伊藤久男音楽記念写真 (伊藤備文氏提供)

 本宮町史11(1993年刊行) 福島美術協会と本宮町P397

福島県美術協会の設立は1930年(昭和5年)6月で、最初は福島美術協会と称していた。これは二科会常連であった伊藤(本宮)の首唱による県下一丸とした洋画団体として、県美術の振興、新人育成を目的に、7人の創立委員によって発足した。
 飛田昭喬(福(島師範学校教諭)伊藤幟(本宮町)高橋卯八(本宮町)竹内誠(県庁)井上理(県庁)佐藤二郎(福島高女教諭)佐藤沢(福島市長・初代会長) 

 第一回公募展1930年11月1日〜5日 審査委員長は二科の重鎮・石井柏亭があたった。(第一回から13回まで委員長)・・伊藤と高橋卯八が二科の常連として柏亭の薫陶を受けていおり、特に伊藤とは個人的な交友関係が深かったことによる。

・・・伊藤(幟)は設立当初の協会に山積みする困難の克服に、その敏腕を遺憾なくふるった。これは彼()が政界・財界・官界・報道機関などとたいへん近い関係にあったことが好都合であった。・・・10数年間続けられたことは彼()の力があづかっている。(『福島県史』20 県美協50年による)


石井柏亭作 1928年作
モデル 伊藤幟とその妹 
高橋卯八本宮出身洋画家(p394)

 『ふくしま100年』写真集より(民報新聞社1987年刊行 p400より
昭和4年石井画伯が制作した200号の作品が完成 伊藤家の別荘・遊楽園でくつろぐ。左から本宮町出身・高橋卯太郎、石井画伯、伊藤幟(子供は備文さんか?)絵のモデルは幟の妹・伊藤富貴) 

■ 昭和21年 1946年 
戦後初の本宮町長 伊藤幟さん (町史3 p856より) 
 本宮町史 11 P404

 伊藤幟は、1898年(明治31年)6月、字仲町の素封家伊藤弥の長男として生まれた。(素封家とは民間のおお金持・財産家) 現町長伊藤備文の父である。 (1898〜1937)

 父町会議員・郡会議員・県会議員・本宮町長・安達郡産馬組合長などを歴任した人だが、絵画の絵画の造詣も深く自らも日本画をたしなんだ。蛇の鼻果樹園の別荘に勝田蕉琴・荻生天泉らを招いて襖絵を依頼した関係から、幟は早くから絵画に興味を持ち、早稲田大学を中退後、石井柏亭・安井曽太郎に師事し、第16回二科展に「運河」が入選して以来、二科の常連として優秀作を発表した。
 石井柏亭の「果樹園の午後」に描かれてた人物は彼と妹らである・・・
・・・1937年(昭和20年)一水会第一回展に「柿と霊山」(油彩)が入賞し、幟の代表作として現在、本宮町中央公民館に飾られ町民に親しまれている。

 ・・その後は経済界・政界に推され、安達群産馬組合長・中央馬事会役員・町長・県会議員・衆議院議員などを歴任するので、絵筆からは遠ざかった・・・・1963年(昭和38年)3月、65歳で亡くなったが、その翌年本宮町と福島市で遺作展が開かれ、総数64点の秀作が展示された。

 「柿と霊山」伊藤幟 1937年作

 遺作展目録   
 p395 勝田蕉琴
 本宮町の蛇の鼻御殿はもともと伊藤弥(伊藤幟の父)が1899年(明治32年)から開拓を始め、蛇の鼻百果樹園として一般公開したものが、明治末期から大正初期にかけて、別荘(今の蛇の鼻御殿)を造った際、著名な日本画家勝田蕉琴と荻生天泉が招かれて、その障壁画(襖絵)を描いた。

 p413 彫刻 戦前の彫刻 (蛇の鼻御殿の彫刻)

 明治末期から大正初めにかけて造られた蛇の鼻の伊藤弥別荘(現蛇の鼻御殿)には欄間や柱に多数の彫刻がある。その多くは字九縄の大内治介(九縄・大内伊之助のそぐ、慶応生まれ)の手になるもので、すぐれた伝統技術である。(p430にも同じことが書いてある) 
 本宮町史11 p865  蛇の鼻楽園

 町の西方2km字蛇の鼻地内に蛇の鼻楽園がある。八幡太郎義家の故事から、この辺一帯を「矢のはな」といっていたが、天明年間(1781〜89年)玉井村(現大玉村)と本宮村との境界争論があったときから、本宮村では「蛇の鼻」と改められたと伝えられている。しかし1736年(享保21年)の「安達郡本宮組村々大概帳」(原瀬家文書)には「蛇鼻、雷神」とか「蛇鼻山」の記述が見える

 自然の景勝にめぐまれた地である。1899年から(明治32年)から本宮町の伊藤弥が開拓を始めて整備をはかり、農園および公園として庶民の憩いの場に開放し、蒼龍山百果園と命名。自ら明治末期から大正初期にかけて5年の歳月を費やし別荘を建て四季折々に風光をめでたこことろ、明治末期に蛇の鼻12景と称する景勝が定められた。
春は梅・桃・桜・ツツジ・チューリップ・フジと、秋の紅葉、池に浮かぶボートを漕ぐ・・・



 大正初期の絵葉書
(参照) 本宮町史11 p411

 桑折町町長・県教育委員・をつとめた角田林兵衛は、1900年(明治33年)12月本宮町字大町の鴫原家(旧北町本陣)に生まれた。名前は五郎といい、本宮小学校・旧制安積中学校を経て慶応大学経済学部に進んだ。卒業後1923年(大正12)桑折町の素封家角田家の養子となり、5代目林兵衛を襲名した。桑折町長、福島信用金庫理事長、県教育委員など歴任、1958年(昭和33年)から福島トヨタ自動車(株)社長となった。1980年(昭和55年)に美術館を建て、初代から収集してきた貴重な美術品を桑折町に贈った(種徳美術館)・・・