町史より2020年3月18日初めての打ち合わせで、当主さんよりコピーをいただく
     (町史の刊行日 調査要)
 作成 佐藤敏宏 2020年4月24日
■ 町史 第3篇 美術・工芸 P390〜391より

 4 伊藤備文家宅(字中町所在)  注:名前は まさふみ 

 旧町内の北端に近い仲町の旧街道沿いに、原形をととめでわずかに現存する商家で、1888年(明治21年)の荒町大火の際にも辛うじて焼け残ったという遺構である。伊藤家は江戸期には質屋を主業とし、町検断名主もつとめ、明治以降は地主として銀行も兼営したという。

 屋敷の間口は元来11間前後(奥行22間余)に割られていたらしいが、明治年間に北隣(もと娼家であったという)および南隣を逐次買収して、当所の2倍以上に拡張している(図6)。それに伴い、合併部分の建物の改廃をすすめるとともに、本来の主屋部の増築・改築も重ねたらしく、江戸期の原型の判別が困難な部分が生じている。他方、伊藤家所蔵の墨書絵図(一枚は板絵)は作成年代不明、かつ現況痕跡とも合致しない部分も多いから、ある時期の構想図であたとも推測できる。

 主屋遺構の原形判明部分や、前期の古図資料から綜合すると、この住居は表通りに平入りの店舗部分を、屋敷北沿いには鍵の手に居住部分をそれぞれ配して、奥への出入りのためにの通り土間店舗中央部に通したであるとみられる。居住棟の奥裏の土蔵等を配した関係上、店裏に座敷を設ける余地が乏しく、上段や座敷等の室は全て店舗2階に配していたらしい。(図7)

のち、北隣の屋敷を買収するに及んで、ここに庭園「おおにわ」を造り、「かって」(居間)の北隣りに上段を増築してこれに面させたり、隣家の土蔵「表蔵」を蔵座敷に転用するなどの大改造を施している。

 したがって、前後の状況から鉤型の店舗と住居棟との原形部分は、江戸期の末と推測されるが詳しくは分からない。
 メモ欄

1)もとの敷地 242坪 現在は約3倍だろうか 11間×22間 → 22m×40m
2)写真のこと

・上記写真 撮影日時と所在の調査要
・東北工業大学 中村研に調査に行く必要がある
・草野先生が調査した資料があると思われる
3)板絵は構想図だろうと書いている

4)北の買い足した敷地には娼家があったとある、当時の戸末期の娼家の形式の調査要

5)鉤型の店舗と住居棟の原型は江戸期とある。作男の住居形式(平面等)も復元可能かもしれない

 町史配置図による疑問点

1)おもてぐら は江戸期と表示されているが、草野氏記述によると「明治期に北隣と南隣を逐次買収・・」とある。また「隣家の土蔵「表蔵」を座蔵座敷に移転するなど大改造を施している」とある。
大改修時期は不明であるが明治期に内装を日本ロココ様式に模様替えした可能性も高い

   


小津久 『陸奥日記』翻刻抜粋(1840年 天保11年3月19日)



 杉田より一里半にて本宮宿にいたり、宿の中をながるる川のほとりなる望嶽楼といふに入て、もちひをくふに、「この家は、かけづくりにて、みはらしよく、二本松がたけは、ただここもとにみゆれば、かくは名づけたるならん」と主にいへば、「いかにも、さなれど、かの山は、俗に二本松がたけといへど、まことは、あだたらが嶽といふ」よし、こたへたるは、心ききたるあるじにして、あやしき名所の、とはずがたりして、もてなしがほする茶屋の主のつらにはあらず。 されば「みちのくのあだたら真弓」とむかしよみけるも、この山のあたりのことなるべく、そを又よこなまりて、安達とのちにいへるなるべきか。

 すぎしみちより左に、いととほく、すがたことなる山の見えしを「いかなる山ぞ」ととへば「うづしが嶽といひて、岩城のかたなる山なり」とこたふ。

 さてこの家のあたりの川は、家のうしろにて大川にながれいり、その大川には、わたし船あり。そのわたしをわたるは、岩城平のかたにゆくみちにて、ここより20里ありとぞ。この宿をはなれて、会津道に石のしるしありて、ここより十三里といふ。



小津久足
(ひさたり):文化元年(1804年)〜安政5年(1858年) 陸奥日記 みちのく日記翻刻史料より

松坂を拠点とし、江戸深川を拠点に海産物商 湯浅屋与左衛門家の6代目主人
 14歳で本居春庭に師事し国学和歌を学ぶ 春庭は本居宣長の実子で長男 (ウィキペディアより)

本居宣長:享保15年(1730)〜享和元年(1801年) 松坂の豪商小津家出身。久足氏と縁戚かはどうかは分からない


●阿武隈川の支流の川で、安達太良山が見渡せる場所に 懸造り(崖造り)の茶店「望嶽楼」が在ったことが分る。古地図など調査すれば場所が分るかもしれない。


町史を参考に作成した スケッチ配置図

  
■ 本宮付近の民家平面参照例図 ( 糠沢忠男家宅復元平面図 1階)
   伊藤家の「店の真ん中を通り土間があっただろう」と草の先生は推測しているが・・・