アジェンダ―未来への課題』 第32号(2011年春号)       HOME 

『アジェンダー未来への課題』第32号(2011年春号)に「ジャーナリズムを経済的にどう支えるか〜2011年度税制改革大綱への疑問とともに〜」(16−25頁)を公開しました。
 特集は「マスメディアの行方」です。 私のこの原稿は昨年11月27日(土)に大阪で開催された「Journalism Festa 2010〜デジタルメディアでジャーナリズムは進化するか?」の壇上で話したこと、さらにそれをきっかけに考えたことをまとめたものです。
 当然、3.11の前に書いたものです。編集部の許可を得て、ここに転載します。
(花田達朗  2011/04/05)








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  ジャーナリズムを経済的にどう支えるか
    〜2011年度税制改革大綱への疑問とともに〜

                               早稲田大学教育・総合科学学術院教授
                                               花田達朗


何が問題なのか


 「マスコミ」の評判低下、マスメディアの危機、ジャーナリズムの閉塞、これらに類する指摘には事欠かない。他方、インターネットのブログやユーチューブやフェイスブックなどに展望と可能性があるという主張も盛んである。それらを眺めていると、筆者にはいろいろなことがごちゃ混ぜに論じられているような気がする。まず、メディアないしマスメディアとジャーナリズムは別のものであり、区別すべきであって、混同してならないというところから始めたい。そして、今考えるべき究極の問題は今後ジャーナリズムを経済的にどう支えるか、どのように賄っていくかということなのだということを最初に述べておきたい。それが本論の趣旨である。

 ジャーナリズムとはリベラリズムとキャピタリズムとともに近代という時代を作ってきた「イズム」であり、ジャーナル中心主義のことである。すなわちジャーナル(定期刊行物)によって同時代を恒常的に観察し、そこで何が起こっているのかという事実を探求し、時代と世界がどこに向かおうとしているのかを点検し、それらの結果を公衆(パブリック)に伝え、公衆に判断材料を提供しようという社会意識、そしてその活動のことである。そのような社会意識は公衆の領域である市民社会が生み出したものであり、とりわけ統治機構たる国家が暴走したり市民的自由を抑圧したり不正を働いたりしないように、その活動を批判的に監視するという役割を自認してきた。こうした出自から今日でもジャーナリズムは、@公権力の監視(在野・反権力の立場に立つということ)、A客観的な事実の追及(当事者としてではなく、非当事者として主体的に出来事を観察するということ)B弱い立場の当事者への寄り添い(@とAのメダルの裏側だと言える)という広く承認された規範をもっている。これらから外れたものはジャーナリズムとは呼ばないし、呼べないというのが歴史的出自に根ざした原則なのである。言ってみれば、ジャーナリズムのDNAなのだ。その対極にあるのは公権力と同化したプロパガンダであるが、時としてジャーナリズムの中に密輸入されてくる。

 他方、メディアとはプレスに始まり、ジャーナリズム活動の産物を頒布する乗り物であり、媒体である。ジャーナリズム活動が目的であって、メディアは手段だという関係にある。初期のプレスはジャーナリズムを行おうという同志的結社だったと言ってよい。明治期の新聞もそうだった。ところが、20世紀開始前後のテクノロジーの発展によってマスメディアが登場する。輪転印刷機やオフセット印刷機に助けられて1920年代に大部数の大衆新聞が生まれ、無線通信技術の応用でラジオ放送が始まる。それらを受け入れかつ必要とする大衆社会ができつつあった。キャピタリズムの欠陥である経済恐慌の発生(1929年)を受けて、広告の重要性が認識され、マスメディアは広告の乗り物として重用されるようになる。こうしてマスメディア自体が商業化し、産業化し、ついに自分自身の目的をもつようなる。すなわち利潤追求や組織拡大である。

 確かにマスメディアを乗り物にすることによって20世紀のジャーナリズムは、広告収入からの内部補助を受けることで自らの活動を賄うという経済モデルを手に入れた。また、マスメディアの経済的自立は公権力からの介入に対して強い仕組みだとも見なされた。マスメディアの所有とジャーナリズムの活動を一体的に運用することのメリットが名目的に承認された時代が続いてきた。さらに、国営放送から転換した公共放送はマスメディアにおける「国家の失敗」と「市場の失敗」に対抗し補完するものとして、国家・政府から自由にしてかつ商業主義からも自由な放送制度として位置づけられ、正当性を主張してきた。その財源は税金でもなく広告収入でもなく、視聴者からの拠出金としての放送受信料に置かれている。

 しかし、この20世紀経済モデル、ジャーナリズムを賄ってきたメディア・エコノミーに終わりが近づきつつある。20世紀末のインターネットないしデジタルメディアという新しいテクノロジーの登場がその大きな要因だと言えよう。また、特に日本では高度経済成長を支えた会社主義の一つの具体形であり、政治的には五五年体制を補完してきた「マスコミ」体制が長期的な解体過程をたどっている。以下では、後者、前者の順番で見ていこう。


古い生産関係、「マスコミ」体制

 「マスコミ」とは英語の「マス・コミュニケーション」のことではない。端的に言えば、「マスコミ」とはマスメディアとジャーナリズムの癒着形態であり、それが日本的経営法の会社という組織原理のもとで実現されている体制のことである。それは日本で歴史的に形成された一つのメディア生産関係である。編集権概念も記者クラブ制度も会社員ジャーナリストも社員教育OJTも自主規制という業界制定倫理もこの「マスコミ」体制の構成要素と見なすことができる。他方、メディアの「内部的自由」もフリーランスもジャーナリスト養成教育もジャーナリスト倫理もこの「マスコミ」体制からの排除項目と見ることができる。
 
 マスメディアとジャーナリズムの癒着形態というものは「ハードとソフトの一致モデル」のもとでこそ実現しやすかった。新聞社は高速オフセット輪転機と配送トラックと宅配網をもち、新聞紙を購読者に販売する。同時に編集局に新聞記者を正規社員として雇用し、記事を生産する。広告局が紙面スペースをスポンサーに販売する。これらを統合して三位一体として経営してきた。放送局は制作スタジオや制作設備や無線送信所を自ら所有し、番組を視聴者に向けて送出する。番組は自社制作するか、外部プロダクションに外注するか、外部から購入するかして調達する。この点では公共放送でも民間・商業放送でも変わらない。ただ、財源が違っていて、前者は受信料収入で賄われ、後者は営業局が時間スペースをスポンサーに販売して収入を得る。

 このマスメディアの「ハードとソフトの一致モデル」、つまり設備所有と内容物制作の統合モデルが会社モードで運用・経営されてきて、その結果日本ではジャーナリズム活動の舞台がほとんどマスメディア組織ベースに限られるという偏った姿になってしまったのである。極端に言えば、マスメディア組織ないし会社に所属しなければ、依存しなければジャーナリズム活動ができないという姿である。これが「マスコミ」体制下の異様な形であって、それはジャーナリズム活動というものが本来誰にでも可能だというもともとの原理に反していると言わなければならない。

 この生産関係の中で確かにマスメディア産業は発展し、高い収益をあげ、正社員に平均以上の高収入を保障してきた。しかし、今日では制作される「マスコミ・プロダクト」の多くはジャーナリズムの質を落とし、制作する「マスコミスト」たちの多くは情報産業の社員ではあってもジャーナリストとしての自己認識をもちえない。前述のジャーナリズムの三つの規範は形骸化し、せいぜいお題目として唱えられているのみである。

 逆に言えば、だからこそ少数の優れたジャーナリズム作品が輝いて見えるのである。2006年7月にほぼ同時に始まったNHK『ワーキングプア』シリーズと朝日新聞『偽装請負キャンペーン』、翌年1月の日本テレビ『ネットカフェ難民』というメディアの枠を越えた同時多発アタックによって、新自由主義下の日本の貧困問題はアジェンダセッティングされ社会的に認知され、政治的な課題となったのである。あるいは昨年の朝日新聞記者による大阪地検特捜部FD証拠改ざん事件の調査報道は実に見事な、ジャーナリズムによる「公権力の監視機能」の発揮であった。日本の警察・検察・裁判の偽装された正義の姿が暴露され、人々の認識は根底から変えられた。そこには必ずと言って、組織の中にあっても「個」としてジャーナリズムを実践していこうというプロフェッショナリズムが生きている。こうした輝きは「マスコミ」体制の解体過程を遅延させるのではなく、解体した先の方向を指し示していると言える。

 したがって、マスメディアベースのジャーナリズムを十把一絡げに否定しても意味のないことである。一見勇ましく見えて、大衆受けするかもしれないが、自己満足に過ぎない。私たちは今日日本で重要なジャーナリズム業績を依然としてマスメディアを通じて知るのであり、いまだインターネットによってではないという現実を無視してはならない。


新しい生産力、デジタルメディア

 インターネットないしデジタルメディアは20世紀の終わりのテクノロジーの発展によって登場してきた新しいメディア生産力である。この生産力の特色は何であろうか。20世紀初頭に成立し、ほぼ100年間を支配したマスメディアの生産力とどのような点に違いがあるのだろうか。私見によれば、それは内容物の制作者がメディア生産手段を所有しなくてもよいという点にある。あるいは情報発信者は物理的な情報伝達装置を所有することなく、メディア生産力を活用することができるというところにある。はっきり言えば、情報発信行為が純化され、情報伝達装置の所有ないしはそれへの従属から解放される可能性があるということである。この特色は大きな帰結を生まないではおかないだろう。

 古い生産力の条件下で作り出された古い生産関係のもとでは、新しい生産力は十分な力を発揮することができない。新しい生産力はそれに見合った新しい生産関係を必要とする。そう考えたマルクスの方法は今日のケースでも有効であろう。今日見られるメディアの地殻変動というものはメディアの生産力と生産関係の調整過程にほかならない。マクロに見れば、新しいメディア・エコノミーが必要とされ、ミクロに見れば、新しいビジネスモデルが必要とされる。
しかし、ここではごちゃ混ぜにならないように、ジャーナリズムを中心にして考えなければならない。もしもジャーナリズムという社会意識の活動が民主制をとる社会と国家にとって必要不可欠なものだと考えるならば、変動していく政治的・経済的・社会的構造の中でもジャーナリズムの存在条件をどのように確保すべきかを考えなければならない。こうして今日私たちは二つの課題を同時に解決しなければならないという状況に置かれているのだ。ジャーナリズム機能の活性化という一つ目標のために、「マスコミ」体制という古い構造からの脱却とデジタルメディアという新しい生産力の活用という新旧二つの課題が横たわっている。


● ジャーナリズム単機能型モデルをいかに可能にするか

 以上の新旧課題を網羅的に考える紙幅はないので、一点のみを際立たせた形で考えてみよう。コンセプトの試金石としては、フリーランス・ジャーナリストの存在と活動を正当に組み込んだメディア・エコノミーを作り出すことができるかということに絞られる。フリーランス・ジャーナリストの活動と作品が正当に評価され、経済的な対価が支払われ、もって彼ら・彼女らの再生産が可能で、次の取材活動に再投資して新たな作品生産を継続していく、そのような存在様式が当たり前のものとして組み込まれたメディア・エコノミーである。蛇足かもしれないが、ここで言っているフリーランス・ジャーナリストとは、いわゆる市民記者でもなければ、ブロガーでもない。プロフェッショナルなジャーナリストであり、現場と当事者の取材に基づきジャーナリズムの原則に則って作品を生産しているジャーナリストであって、ただメディア組織に正規雇用されていないジャーナリスト、独立自営で生計を立てているジャーナリストのことを指している。

 フリーランス・ジャーナリストの存在様式は古い生産関係、とりわけ日本の「マスコミ」体制の中では不可能に近いことだった。しかし、新しい生産力はまさにこの存在様式に可能性を与えるものとなろう。それを具体化していかなければならない。ハードとソフトの分離・独立を特色とするデジタルメディアの生産力をジャーナリズムのために活用するには、ジャーナリズム単機能型モデルを作り出し、経済的に成立可能にすることが必要である。

 2008年のリーマンショックはマスメディアの広告依存のビジネスモデルを直撃した。80年前の世界恐慌の経験を経て形成されたモデルが世界金融恐慌によって打撃を受けたことは、皮肉なことではあった。その事態に米国ではさまざまな試みが開始されている。それを取材し伝えた『朝日新聞』の「メディア激変〜米メディアの模索」(2010年10月29日〜12月3日の連載)は興味深いものだった。米国では従来からフリーランスという存在様式が定着しているが、彼ら・彼女ら自身がさまざまな新しいメディアを次々に立ち上げているのである。寄付を募ってNPOを立ち上げ、あるいは同志を募って新会社を立ち上げ、インターネットを使って会員に向けて、あるいは既存マスメディアに向けて配信する。情報や娯楽ではなく、手間隙かかる調査報道、人々が知りたいことではなく、人々が知るべきことを調査発掘して伝える調査報道が重視されている。既存メディアの要職を捨てて、この流れに身を投じる人々もいる。国際報道に特化したネットメディア「グローバル・ポスト」はフリーランスをネットワーク化し、世界中に約60名を配置し、ハードなジャーナリズムを展開し、それで採算ベースに乗せている。そこに見られるのは、ジャーナリズムをやりたい人間が自分たちでメディアを作り出し、道具として使いこなし、経済的にも成り立たせていくという精神の運動である。

 日本でも、以下に登場するように、いくつかの動きが生まれている。何かが動き出した気配がある。ただしそこには既存マスメディアの人々からの参戦は今のところ見られない。


税制措置とNPO

 やっと具体的な日本の問題にたどり着いた。民主党政権は昨年12月に2011年度税制改正大綱を発表した。そこで私の注意を引いたことがあった。給与所得者(サラリーマン)の特別支出控除対象を拡大して勤務必要経費の中に図書費として新聞などの定期刊行物の購入費を含めるというのである。おやっと思った。いろいろな疑問がわいた。なぜ新聞代なのか。ほかの定期行物はどうなのか。対象メディアをどう定義するのか。さらに、なぜサラリーマンだけなのか。商店主や農業従事者の仕事にとって新聞は必要ではないのか。論理的には説明できないと思った。

 他方、同大綱には「市民公益税制」として、NPOなど「市民が参画する『新しい公共』の担い手を支える環境を税制面から支援する」として、NPOなどへの寄付金に応じた額を所得税・住民税から控除する減税措置が組み込まれた。

 結論から言えば、ここには政策の構想力がまだ不足していると言わざるを得ない。「市民公益税制」を設けるのであれば、そこに「ジャーナリズム支出控除」を設けてはどうか。市民社会を支えるジャーナリズムへの支出、民主的社会を維持する上で必要な費用としてのジャーナリズムへの支出、これを税制面から優遇し、その支出が増えていくことを誘導するのである。そうすれば、ジャーナリズムのためのNPOメディアに資金が集まりやすくなるだろうし、既存メディアの収入減退にも多少の歯止めがかけられるかもしれない。

 もちろんそこでどのメディア、どの刊行物をその対象にするのか、定義や線引きで政治的な問題が生じるであろう。そこは厳密さで細かく縛るよりも、大きな目標で広くカバーされる範囲を設定すればよいように思う。ここがネックとなって導入できないとすれば、知恵のない話である。私見によれば、事例として下記に挙げるようなメディアへの個人の年間支出は控除対象となるのではないかと考える。一つずつ解説しないが、年間支出額だけを下記に記しておく。

 つまり一般日刊紙購読料が控除対象になるのであれば、なぜ総合雑誌はだめなのか。さらに日本でもフリーランスのジャーナリスたちが立ち上げてきたインターネット上のデジタルメディアの定期購読料や会費が控除対象とならない正当な理由があるだろうか。NHK放送受信料は税金ではなく、公共放送を支える拠出金であるから、ここに含めてよいと思われる。

 『DAYS JAPAN』など上記リストに挙げた三つの非マスメディア系の独立メディアの中にはNPO組織形態のものはないけれども、NPOへの寄付金の優遇措置と簡便なNPO設立の制度化がさらに講じられれば、NPOメディアの設立を誘発していくことだろう。

 前頁のリストを作ってみて思うのだが、私たちはジャーナリズムのためにどれだけのお金を出す用意があるのだろうか。ジャーナリズムはタダではやっていけない。費用がかかる。私たちはその費用を引き受けるということを考えたことがあるか、どうか。それが必要な費用であり、民主的社会の必要経費なのだという認識をもつならば、私たちは市民社会の一員としてそれを積極的に賄っていかなければならないのではないだろうか。



・『朝日新聞』(一般日刊紙、朝刊・夕刊セット) 47,100円
・『高知新聞』(一般日刊紙、朝刊・夕刊セット) 45,240円
・『世界』(月刊誌)                      10,080円
・『文藝春秋』(月刊誌) 9,000円
・『DAYS JAPAN』 (フォトジャーナリズム月刊誌、2004年4月創刊)  7,700円
・『DAYS INTERNATIONAL』(電子ジャーナル、2011年3月20日スタート) 2,000円
・『fotgazet』(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会、オンラインマガジン、2011年2月15日スタート、年4回発行) 2,400円

・『アジアプレス・ネットワーク』(独立系ジャーナリスト組織、最新・最深現場ルポのネット配信、2010年6月27日サイト・リニューアル) 7,000円
・『G2』(『月刊現代』後継、ノンフィクション新機軸メディア、ネット閲覧) 無料
・NHK放送受信料(地上契約) 14,910円
・NHK放送受信料(衛星契約) 25,520円